2013/02/10

記憶の迷宮でだきしめて!2



記憶の迷宮でだきしめて! 2





事故以来、元々単独行動主義のシャルルは、あたしたちの部屋をあっという間に出て、前に使ってた自分の私室にこもるようになっちゃった。
あたしだってねえ、そりゃもう負けじと、あの手この手で何とかシャルルの記憶の取っ掛かりを探ってはみたんだけど……あの冷血漢の態度に、もうどうにもめげそうだったのよお。
というか、あからさまに避けられてるのがミエミエ!
傲岸不遜・毒舌冷血失礼野郎でも、昔はそれでもまだ紳士的なところあったわよねえ!?
最近はそれすらあやしいし、例えばあたしがメイドさんと同じことしたって、なぜかイライラと怒られる始末。

「大バカシャルル……頭のネジ、どこに落としてきたのよ……」

今日も失敗を重ねて逃げてきたあたしは、彼の執務用の椅子にうずくまって、どーんと落ちこんでいた。
ふと顔を上げると、正面の大きなフランス窓に、年に合わないちょんちょりんをしたちんどん屋さんみたいなシケた顔が映ってる。
この姿見れば、シャルルもなにか思い出してくれるんじゃないかって思ってたけど、結果は惨敗。
「バカみたい」
ぐいと赤いぼんぼりを引っ張り、机の上に投げ出す。

「ここへは入るなと、そう言ったはずだが」

瞬間、背後で冷たく響いた透明なテノールボイスに驚いて、あたしは思わず飛び上がった!
「その、あの、かっ、片付けでもしてあげよーかと!さっさっさ~、と」
と、慌てて取り繕ってみたものの、まるで美術館のように整然とした部屋にはそんなモノなんか何もありゃしない。
片付けられるはそうーーーこのあたしのみ、うう。
「間に合ってる」
静かに言い放ち、入り口のところですっとその長身を横へずらすシャルル。
出ていけ、ね。ふん、なによ、えらそーにっ。
あたしは文句半分、居たたまれなさ半分で憤然と部屋を出て、廊下を歩き出した。
あ、しまった、髪ゴム置きっぱなし!
そのことを思い出してすぐにとって返し、少し開いてたドアをそっと開ける。
すると、机際で佇むシャルルの背中越しに、手の中に握られた、赤いまん丸玉が見えたの。
!! もしかして何か思い出してくれた!?
喜んだのもつかの間、次の瞬間、彼はためらいもなく、くずカゴにそれを放ったのだった。

「ーーーそれ、あたしのだってわかってるでしょ!? 

いくら覚えてないからって、捨てるなんてひどいじゃないっ。何がそんなに気にくわないのよ! 

なによ……なによっ、意地悪シャルルのワカランチンのトンチンカンのオタンコナス!!」



身体が震えくるくらいの絶望を感じながら、あたしは反射的に叫んでた。

そうしてくずカゴを蹴ったおし、あたしの大事な青春の証を拾い上げると、一目散に部屋を出る。
泣くもんですか、あいつの前でなんか、絶対泣くもんですかっ。
中庭にある西洋風東屋のガゼボの陰まできて、あたしはとうとう我慢できずにへたり込み、声を上げて泣いた。
ーーーどれだけそうしてたのか、泣き疲れてウトウトしてたあたしの隣には、いつの間にか和矢がいた。
昔みたいに真っ赤なリンゴを持って、少し離れた所に腰かけて穏やかに目を閉じ、見事なくせ毛を風に遊ばせている。

「少し話しをしようか、マリナ」

「ーーーそのリンゴくれたら、いいわよ」

泣きすぎてガサガサ声のあたしの言葉にクスッと笑って、黒曜石の瞳をこっちに向ける。
ああ、優しさといたわりを含んだこの眼差しに、あたしは今まで何度助けられただろう。
投げてくれたリンゴを受け取りつつ、こみ上げる甘酸っぱい懐かしさに、あたしはギュッと唇を引き結んだ。
「ガキのころと何も変わってねーな」
「そういうあんたこそ、毎度エサでつるとこ、成長してないじゃない」
「っ、仕方ないだろ」
そこまで言って言葉を切ると、本当に小さな声でためらいがちに、和矢は静かに囁いたの。
ーーー今のお前に触れる訳には、いかないんだ。
あたしたちの間に確実に流れた時間を感じながら、あたしはそれを振り払うように、景気よくリンゴをかじった。
口いっぱいに広がる甘酸っぱさが、あたしの胸にもこみ上げた甘酸っぱさを取り込んでいく。
それをひたすらもしゃもしゃゴックンと飲み、あっという間に芯だけになった欠片を、最後にあーんと口に入れようとした時、なぜか慌てた和矢に取り上げられちゃった。
「いまだにそんなことしてるのかお前は!」
あら、よーく噛めば食べられないことないのよ?
「記憶が戻ったシャルルにオレが怒られる、いい加減にしろっ」
「そっか、記憶が戻んなきゃ、怒られることもないのね、あっはっは。気楽でいいわ」
カラ元気でそう言い放つと、とたんにまたポロッと涙がこぼれる。
正直あたしはもう、疲れ果ててぐちゃぐちゃだったのよ。
そんなあたしの横で、和矢はシャルルと話してきてわかったことを、ぽつぽつと語り出した。
「一般的に記憶障害といっても、いろいろな分類があるんだ」
シャルルの場合は、きっかけは外傷性、つまりケガでできた血腫で脳が圧迫されてたからってのを口火に、和矢は穏やかに分かりやすく、あたしに説明してくれた。
これはジルから聞いた病院の所見と同じよね。
あたしはフンフンとうなずきながら、一言も聞き漏らすまいと、デカ頭を必死に回転させて聞いていた。
だけど血のかたまりを取り除いても、全回復しなかったことから、心因性、つまり、心の問題でこの症状がおこっている可能性が高いということ。
そして、部分健忘といって、今までの記憶の中で、思い出せるものと思い出せないものが混在している状態だということ。
それは昔聞いた、和矢の症状とよく似ていた。
そして脳みそっていうのはブラックボックスで、どうしてそれが起きたのか、もとに戻すにはどうすればいいのかなんて、誰にもわからないんだってことだった。
つまりは、明日にはケロッと元通り、もしくは一生このままか。
要は神さまと、シャルルの脳みそ次第っていう、いい加減で残酷な真実が、あたしの目の前に突き出されたの。
でも天才的な才能も高IQもそのままだし、クソ高いプライドも麗しい美貌も顕在で、どこからどう見ても、完璧なシャルル・ドゥ・アルディはいるの、そこに。
ただ、あたしと過ごした時間、あたしと共有したいろんな体験がない、シャルルなの。
あたしは膝をぎゅうっと抱えながら、かつてダ・ヴィンチと自分を重ね合わせて、自嘲的に微笑んでいたシャルルの淋しげな横顔を思い出していた。
せっかくあたしと笑い合えるようになって、「これが幸せなんだね」って、うっとりとそれは穏やかに囁いてくれるシャルルになったのに。
さっき、あたしの髪ゴムを捨てた彼の冷たい背中が、胸に突き刺さる。
「ねえ和矢、あれがほんとのシャルルなら・・・あたしと一緒にいたときの彼は、無理してたのかな。
今のシャルルって、今まで一緒にいたシャルルと、全然違うような気がするの」
やっと押し出した言葉を受けて、和矢は軽い吐息をついた。
「でも、オレが知ってる昔のあいつとも少し違う気がする。
実はオレも戸惑ってるんだ、あんなシャルル、見たことがない。
普段は至って普通なのに、お前に関してだけは、あんなに感情むき出しにして、苛ついたり怒ったりしてる。
チビの時から見てきたけど、あいつは自分の立場が悪くなればなるほど、冴え渡るように冷えてすべてを閉ざし、事態の解決のみを優先して動いてきた。
今回のこと、あいつはすべてをわかってて、状況を冷静に受け止めてるよ。それはちゃんと確認した。
だけど心が、ーーー言うことをきかないらしい」
立ち上がりざま、和矢は長い足で数歩歩きガゼボから出ると、遠い眼差しを冬空に向けた。
「つまり『昔のシャルル+お前との記憶=今のシャルル』だが、今のシャルルからお前との記憶を引いても、昔のヤツにはならないみたいだな。
お前が、シャルルを変えちまったんだ」
あたしをまっすぐに見つめ返しながら、和矢はクスッと笑って柔らかくそう言った。
「シャルル、あたしのこと、なんか言ってた?」
今まで怖くてちゃんと聞けなかったことを口にすると、和矢は少し切なそうに口をつぐんで、わずかに下を向いた。

「何も」

心臓が、本当にドキッと音を立てたのがわかるくらい、跳ね上がった。
「ただ、今まであったことだけは正確に知りたがった。
日付、時間、起こった出来事、言った言葉までしつこいほどに、事実確認したいんだと言い張って、オレが覚えていることほぼすべて、白状させられたよ」
じゃ、じゃあ、昔のあたしが和矢を好きだったっていうことも……全部、よね!?
ぎょっくんとツバを飲み込んで、あたしは和矢の綺麗に整った横顔を、食い入るように見つめた。
「確かに、お前のことは何も言わないけど……オレ実はさっき、隣の部屋にいておまえ等を横から見てたんだ」
へ? あっ、髪ゴム捨てられたの、見てたの!?
「お前が置いていったぼんぼりを手に取って、あいつ、すげえ辛そうな顔してた」
……えっ。
辛そうな顔してたのに、シャルルは結局、それをゴミ箱にほっぽったわよ!?
それって……それって。
突然あたしの目から、とんでもない量の涙がブワッとあふれてきた。
「わーん! やっぱシャルルは、あたしみたいな女の子なんて、元々好きでも何でもないんだぁ!」
ずっと頑張ってガマンしてきたのに、壊れたダムみたいに面白いように涙が流れて、あたしはわんわんと泣きじゃくった。
「どうしてそうなるんだよ!」
慌てた和矢はあたしのもとに駆け寄り、ハンカチを手渡そうとしてくれたみたいなんだけど、それどころじゃない。
心が、胸が張り裂けそうで、ううん、いっそ砕けちゃった方がマシかもしれないくらいの淋しさと痛みに襲われて、あたしは身体が動かなかったの。
ゴミ箱にポイ捨てされたあのぼんぼりが、まるで自分みたいに感じて、シャルルに、お前なんかいらないって言われたみたいで……!
和矢は仕方なしに身を屈め、あたしの目元をハンカチで押さえつつ、根気強く言葉をかけてくれた。
「あんな顔したってことは、お前に対して罪悪感を感じてるってことじゃないのか!?
いいか、マリナ聞いてくれ。
シャルルにとっては、”思い出せない”という経験そのものが、はじめてなんだよ」
は?
あたしは和矢がいったい何を言っているのか、わからなかった。
「生後6ヶ月で銀のスプーンの刻印を見て以来、あいつは膨大な量の記憶を、ほぼ完璧に覚えてるんだ。そしてそれを、絶対に忘れられない」
ーーーえ、えええええええ!?
そそそ、それじゃ今まであたしがやらかした失敗も失言も、げっぷとかオナラとかくしゃみとか、ぜ、全部ー!?
「人間はある意味、忘れるということを支えにして生きてる部分もある。いつまでも嫌なこと引きずってなんか、いけないもんな。
どこかでそういう記憶を抹消したり、解釈を変えたり書き換えたりして、日々をやり過ごしまた歩き出そうとする。
だが、誰しも当たり前のようにやっているそれを、シャルルが出来ないとしたら?」
!!
「……それが出来ないが為に、冬眠しようとしたの、知ってるだろ」
忘れるためには永久量の睡眠が必要ーーー
あたしの脳裏に、ふいに哀しげなジルの涙混じりの声が蘇った。
そしてその性質を知っていたから、アンテロス事件のとき、和矢はシャルルをフォリーかもしれないって思ったのかも。
忘れられないから抑圧する、心に押し込めて違う自分を作り出そうとしたんじゃないかって。
「忘れることがないということは、思い出す必要もない、ということなんだよ。あの頭に入ってるデータベースは、”検索”という作業も必要ないほど精密で、高性能なのさ。
時間による劣化も歪曲もなく、シャルルは過去体験した出来事を、正確に脳内で再現できるんだ」
あたしは改めて、シャルルの凄さを目の当たりにして、ごくんと息を飲んだ。
「ずっとそうして生きてきたのに、落馬以来自分で集めた記憶と、脳内で認識しているものの照合が上手くいかず、整合性が取れないことに苛ついて、戸惑っているんだよ。
それに、あいつだって機械じゃない、心はあるんだ。
だから、お前がどれだけ一生懸命尽くしてくれているか、身を持って感じているはずだよ。
お前に応えてやれない融通のきかない自分の性質にも、うんざりしてるあいつの気持ち、わかるだろ。
あの時は……たぶん衝動的に、どうしようもなくなって、目を背けたかったんだよ、こんな混乱から。
あいつがどれだけ不器用なのか、お前なら知ってるはずだ、マリナ。
だいたい、嘘でも気のあるフリするなんて、そんな不誠実で不確かなこと、あいつがやると思うか?」
一語一語、噛みしめるようにしゃべる和矢は、すごく頼りがいがあってあたしの中の嵐はスッと収まった、んだけど……何でかちょっとジェラシーを感じてしまったの!
和矢は、完璧にシャルルを理解してて、こんなにも力になってあげれてる。
一方恋人のはずのあたしは、まるっきりの役立たず。
あげくの果てに、反対にシャルルを恨む始末。
あまりの情けなさに、穴掘って冬眠したいほどミジメな気持ちで、あたしは脱力した。
あんたがシャルルの恋人だったらよかったのに。
ボソッとこぼれたその言葉に、バーカと明るく返して、和矢はあたしのボサボサ頭をさらにボサボサにするように、乱暴に髪をなでた。
「お前が信じてやらないでどうするんだよ。
オレはあれを見て確信した。
やっぱり記憶を戻す鍵は、お前自身だよマリナ。
オレにやれることは、もうない。
なあマリナ、あいつの壁をぶっ壊しちまえよ、お前のその非常識なパワーでさ。
……お前の本当の良さは、付き合ううちにわかっていくんだ。
それで気がつくと、いつの間にか、心の中にはびこってるんだ。
刈っても刈っても、しつっこく生えてくる雑草みたいにな、フフ」
「な、なによそれっ」
「がんばれよ、お前ならきっとやれる。
シャルルにへばり付いて、イヤってほどあいつにわからせてやれ。
ーーー一番大切なのは、誰かってことをさ」
くせ毛をこぼしながら縮こまったあたしをのぞきこみ、漆黒の瞳を凛と輝かせ、精悍さを備えた誠実な笑顔を向ける和矢。
いつでもそうだ、和矢は事実をきちんと受け止め、考えて飲み込んで、一番いい方法を柱みたいに心の中に立ててくれる。
ふいにその時、ちっとも似ていないんだけど、なぜか和矢の笑顔が、シャルルの微笑みを思い出させた。
物憂げなんだけど、心の底からあたしを想ってくれてる、あたしだけの微笑みが、目の前に蘇ったの。
失ってはじめて、いつも目の前にあったものの大切さに気づくという愚かさと、シャルルをあんな目に合わせてしまった自己嫌悪が、一気にあたしにおそいかかる。

「っ、まだちゃんと、ゴメンも言ってないのに。 

ごめん、ごめんねシャルルぅ……シャルルに、会いたいよぉ」

引っ込んでた涙がまたはらはらっとこぼれて、目の前の和矢が、困ったみたいに息をのんだのがわかった。
「なんだよ、変わったのはシャルルだけじゃないのか。
……ずいぶん泣き虫になったな。もう、泣くな、よーーーマリナ」
そう言って、和矢はあたしの頭を優しく抱え込み、その広い胸にそっと抱きしめてくれた。
こうやって誰かに抱きしめてもらうのは久しぶりで、あたしはその温かさに、身体の緊張がとけていくのがわかった。
ハグにはそういう効果があるのは知ってたけど、和矢の腕の中で感じる安心感は、ジルとする時みたいに穏やかで、ただただ優しかった。
だけどシャルルのハグはワガママなの。
まるで自分に取り込んじゃいたい、て言ってるみたいに甘くて熱くて切実で、あたしはいっつもドキドキしちゃう。
胸の中にいる時、本当に声が聞こえるの。
あたしの名前を、噛みしめるようにずっとずっと囁くシャルルの声が。
あたしはそんなハグをもらう度、どんどんシャルルを好きになっていった。
ただ生きてるってことが、こんなにも愛しく思えることも初めて知ったの。
これがいかに大事なことで、改めてシャルルと築いてきた関係が、あたしにとってどれほどの存在証明になってたか、今更ながらに思い知らされた。
今のあたしも、シャルルがいたからつくられた。この気持ちを、絶対になくしたくない。
あたしはこの時、どんな事があっても石にかじりついてでも、必ずシャルルを取り戻そうって、誓ったの。





「ーーー離れろーーー! 

それはオレの妻なんだろう……!?」





冷えすぎて逆に熱く感じるほど危険に満ちた声が背後ではじけたと同時に、あたしをなぐさめてくれていた和矢の身体が、いきなり後ろにふっ飛んだ!!

ぎゃあ!

幸い和矢は芝生に飛ばされたから、すぐに起き上がったけど、殴られた唇のはしが切れて血がにじんでしまっていた。
これって、これってまるで、トルソの逃走劇のはじまりシーンじゃない!
あの時は和矢が先制攻撃だったけど、今度はシャルルが先手ねっ。
一瞬わくわくしちゃったそんなあたしの目の前で、和矢が手の甲で血を拭いながら、挑戦的で不敵な笑みを浮かべて、シャルルへと近づいていった。
「それ? こいつにはマリナっていう名前があるんだ、訂正しろ」
「っ、知らない名前を……気安くは呼べない」
「そのくせ嫉妬だけは一人前か。ふざけるなよ、ーーーオレからさらったくせに、何泣かせてるんだ!」
血を吐くようにそう叫んで、和矢はシャルルに強烈なボディブローをお見舞いした!
身体がくの字に曲がるほどのパンチをくらって、シャルルは芝生に崩れるように膝をついたのっ。
んぎゃああ!
「なっ、なにすんのよ、気でも違ったの和矢! シャルル、ケガしてんのよ!?」
「先に手を出したのこいつだろ。頭やってるから顔は殴れないからな。
効いたろ、これで記憶が戻ってくれればいいのにな」
シャルルに取りすがったあたしを払いのけて、和矢はシャルルの襟首をつかんで引っ張りあげ、噛み付くように視線を合わせた。
うっ、大人になった和矢ってワイルド!
「しっかりしろよシャルル、この子は命よりも大事な、『運命の女』だろ」
瞬間、かっと目を見開いたシャルルは、厳しい眼差しを暮れかけた空へ投げた。
きつく寄せた眉根が、彼の苦しさを語っていた。
「いいか、オレはいつだってマリナをさらっていくぜ。
お前に隙があるなら、今度こそ譲らない!」
和矢ーーー!
その宣言はあたしたちに突き刺さり、まさにショックを受けた。
ま、ましゃか本気じゃないわよね、まさかね。
芝生にへたり込んで、つかみ合う二人の大男を見上げたまま、あたしはパニックになりそうなほど動揺してた。
やがてシャルルのパンチが炸裂して、また和矢が吹っ飛んだ。
ひえ~っ、巻き込まれるのはまっぴらよぉ!
こそこそと四つん這いでその戦場から退避しようとしたその時、いきなり、ガシッと肩をつかまれた!
ひぃいいっ、なにっ!?
驚いて振り返ると、青灰の瞳を野獣みたいにギラギラと輝かせたシャルルのどアップが、すぐそこにあったのよっ。
その鬼気迫る表情にひえっとのけぞり、逃げようとしたあたしをガッキと捕まえて、さらうように抱きかかえるシャルル。
久しぶりに、本当に久しぶりに、こんなに近く体温を感じれてびっくりはしたけど、本心は喜んだのよあたしだって!
だけど、だけど目の前にいるシャルルの表情や瞳は、まるで遠い異国の男の子そのもので、親しみや懐かしさなんかちっともわかなかったの。
知ってる顔のはずなのに、なぜか知らない人に抱きかかえられてる、そんな違和感にあたしはこのシャルルが怖くなってしまった。
でも振りほどこうにも、とんでもない力で抑え込まれてて、抜け出そうともがく努力はまるっきり無駄なんだと、あたしは思い知らされていた。
助けを求めようと、芝生に座りこんでる和矢になんとか視線を送ると、彼は切れた唇できれいに笑って、立てた親指をぐいっとあたしに向けた。
あんなに血がにじんで、痛くない訳ないのに、和矢はあたしを不安がらせないようにあんなに口角を上げて、明るく笑ってくれた。
真実を射抜くような目で、真っ直ぐにあたしの背中を押してくれたの。
がんばれ、マリナ。お前なら大丈夫。
シャルルを信じろ、って。
あたしは涙が止まらなかった。
そしてシャルルが踵を返すとき、芝生へと大の字に身を倒す和矢の姿が、一瞬見えた。
ありがとう、ありがとう和矢。
あたし絶対にシャルルを取り戻す!
それでふたりで揃って必ず、あんたにお礼を言いに行く!
シャルルに治療費と迷惑料とセラピー代、ドーンと請求してやんなさいっ。
待っててね和矢っ、あたし絶対やってみせるから!



「何すんのよっ」



凍えたようなシャルルの横顔に、あたしはおなかの底から息を吐き出し、叫んでやった。
暮れかけたフランス庭園を、大きなスライドで横切りながら、シャルルは無言で、ジタバタ暴れるあたしを有無をいわさず運んだの。





















「いたっ!! っ、なんのつもりよ、シャルルっ」

あたしはシャルルの個人部屋に連れ込まれ、いきなりベッドの上に乱暴に投げ出された。
シャルルの香水の香りしかしない、このベッド。
ケンカしながらふたりで選んだ、思い出のリネンのない場所。
ふいにズキンと心が痛んで、あたしは憎々しげに糊のきいた高級シーツを、ぐしゃっと握り締めた。
しかしなんだってこんなとこに運ばれたのかしら?
不思議に思って振り返ろうとしたその時、いきなり何かがあたしにのしかかってきたの。
驚いてパチクリしてると、あっという間に両手を拘束され、抵抗できないよう腰から下も抑え込まれたマヌケなあたしがいた。
キラキラと鈍色に光る白金髪が、呆然としてるあたしにこぼれ落ちてくる。

「ちょ……、な、なにやってんのよあんた!?」

「ーーー君はオレの妻なんだろ?

君を抱けば……思い出すかも、しれないぜ」

呼吸が、止まるかと思った。
ううんっ、ほんっとに息が止まっちゃったかと思ったわよ!
な、なに言ってんのコイツってば!!
ぱかーんと口をおっぴろげて、あたしは鼻の先まで迫ってるシャルルの冷たい美貌を、しげしげと見てしまった。
記憶をなくしたついでに、紳士としての振る舞いまでどっかにすっ飛ばしたらしいシャルルは、もはやただの、いえ、見てくれが超絶綺麗なだけの、無礼なフランス人じゃない!
だけどあたしははっとした。
確かにエッチの記憶というか体感は、身体の記憶としちゃ最たるもの。
頭がイカレてる今、身体に聞いてみるのもアリなのかもしれない。
あたしの女としての矜持とモラルと相談しつつ、ゴっクンと息をのみ、再び目の前の美貌を見てみた。
ーーー明らかに、あたしがベッドでいつも見上げてる彼じゃない。
とても綺麗で整ってはいるけど、まるで人形のよう。
時々、ギラリとした苛立たしげな憤りが噴水のように湧き上がり、優美な青灰の瞳をまるで冒涜するように染める。
次の瞬間には、暗い不安がいっぱいに溢れ出して、哀しげにその瞳をよどませ、すっぽりと覆う。
くるくる変わるそんな複雑な感情を振り払うかのごとく、シャルルは激しく目をしばたいて、抑えこんだあたしの両手首を、ますます強く締め上げた。
ジワリと冷や汗が浮かび、鼓動が早くなり始める。
これって、恐怖、かしら。
そんな切羽詰まった見知らぬシャルルを、心底怖いと感じてしまう前に、あたしは考えるのを止め覚悟を決めた。
ギュッと唇をかみしめて、目を閉じたの。
いいわ、やってやろうじゃないのっ、どうせ身体はいつものあいつだもの。
目ぇ閉じちゃえばわかんないわよ!
「ほうーーー献身的だな。
東洋人、特に日本人は総じてそういった統計が出ているが、これは興味深いね。
いささか退屈だが、オレの妻も、例にもれず従順、というわけだ」
まるで研究発表をするような事務的な声。
だんだん、気持ちが悪くなってくる。
でもそんな躊躇を感じてるうちにーーー冷たい唇が、重なった。
それは、地下道でしたおっかなびっくりのキスとも、華麗の館でした情熱的なキスとも、結婚してからもらう穏やかで熱く溶けるようなキスとも違い、ーーーなんて言うんだろう、シャルルという人間が、全然感じられないものだった。
「ずいぶん大人しいじゃないか、もう少し反応してくれないと楽しめないぜ」
首筋をはう冷たい唇から、否応なしに放たれる無遠慮な言葉は、今までのシャルルからは想像も出来ないくらいに粗野で、ただいやらしかった。
思わずカッとなったけど、その時、ジルと和矢の声が蘇って、あたしを励ましてくれたの。
シャルルを信じてあげて下さい、マリナさん。
お前が信じてやらないでどうするんだよ。

ーーーこれはシャルル、これはシャルルっ、

シャルルったらシャルルったらシャルルなのよぉ~~~~!!!

優しさのかけらも感じない冷えた指先が、あたしの身体を撫でていく。
あたしが今まで知ってるベッドでの彼とは似ても似つかない、欲望だけしか感じないその行為に、それをしてるのがシャルルなんだとどれだけ思い込もうとしても、気持ち悪さは増すばかりだった。
唇を噛み締めながら身体をよじり、あたしはそれに必死に耐えた。
本当のシャルルを取り戻せるなら、ほんのちょっとガマンすればいいことだし、あたしたちはこうしてずっと愛を語り合ってきた。大丈夫よ。
そうグルグルと考えるうちに、繊細な長い指先がブラウスのボタンに、かかる。



「和矢にも、こうだったのか」



胸元で、信じられない言葉が響いた。
全身総毛立ったあたしは、全力でシャルルを跳ねのけて、乱れた洋服を胸元で掻き抱いた。
「やっぱり、やっぱり無理! 絶対いやっ、ごめんシャルル!!」
ところがシャルルは強引にあたしを引き戻すと、再び組み敷いて、無理やり身体を押さえ付けたの。
圧倒的な男の力に、あたしは心底ゾッとしてしまった。
人形のように整った無表情な中に、嗜虐的な影をちらつかせながら、底暗い声で低く囁くシャルルは、絶対にあたしの知ってるシャルルじゃない。
「黙って従ったのはそっちだろ、今更なんだ。オレに恥をかかせる気か」
透明な声、いつものシャルルの声なのにーーーこんなに硬くて怖い響き、聞いたことない!
シャルルはあたしの首元に無理やりキスしながら、強く強く、あたしの身体をベッドへと押し付けた。
「い、いやー! やめて、やめてよシャルル!
こんなのあんたじゃないっ、あんたはシャルルじゃない! 
あたしの大事なシャルルなんかじゃない!! シャルルを返してよぉ!!」
のしかかる彼の下で死にもの狂いで暴れながら、あたしは泣き叫んでいた。
シャルルはやがて、そんなあたしの両腕をわしづかみにして、白金髪を振り乱し鋭く言い放った。
「じゃあオレは一体誰だ!?
シャルル・ドゥ・アルディはこの地上でただ一人、このオレしか存在しない!
お前だ、お前の存在だけがオレを否定する。
お前こそ、オレのなんだと言うんだ…!」
絞りだすように苦しげに言って、シャルルはうつむき力なくあたしの両腕をーーーあたしをゆっくりと、解放した。
涙でグシャグシャ、洋服ぐしゃぐしゃなあたしと、うつむき痛々しく頭を抱え込むシャルル。
あたしたちはふたりでそれぞれに混乱しながら、ショックを受けて呆然としてた。
数週間前まで、あんなに楽しく過ごしてた日常が、今はとても遠く感じる。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
悔しさと悲しさと淋しさで震える指先で、あたしがなんとか洋服を直していると、それとは聞き取れないほど微かな声が、重苦しい室内に控えめに響く。
「……すまなかった……どうか、していた」
震えてわななくその囁きは、まさに心身共に限界ぎりぎりな彼の様子がうかがえて、あたしは驚くと同時に、居たたまれないほどの悲しみがこみ上げてくるのを、堪えきれなかった。
たまらず、その背中に飛びついてわんわん泣いた。
「あんなことっ、言うつもりじゃなかった…大変なのはあんたなのに、あたしったらひどいこと…っ。
ごめんねシャルル、傷つけてごめんなさい!」
こんなにも懐かしい背中の感触に、涙が止まらない。
どうしてシャルルなのに、シャルルじゃないの? あたし知ってるのよ、この背中の広さもあったかさも!
だけどシャルルは、あたしのこと、これっぽっちも知らないのね。
そりゃ知らない女の子をいきなり奥さんだなんて言われりゃ、パニックにもなるわよね。
しかも完璧だった自分の世界が抜け落ちてる、なんて、自尊心の高いシャルルには、信じたくないでしょうしね。
ねえシャルル、覚えてない? あたしのあったかさも柔らかさも。
あんたあたしを抱きつぶすの大好きだったわよね、いくら苦しいって言っても絶対やめなかったわよね、ふふ。
ねえ、ぎゅーってしてよ、いつもみたいに。もう文句なんて言わないから。
あたしが困るくらいに優しく強く、冗談言いながら今日の報告を聞かせてよ、ねえお願いよ…シャルル。
その背中に、あたしが必死にしがみついていると、やがてゆっくり、本当にゆっくりと振り返りながら、シャルルがあたしをふわりと抱きしめてくれたの。
そっとそっと、空気みたいに柔らかく遠慮がちに、あたしを包み込み囲うその腕は、なんとなく前のシャルルの感触がした。
「ごめん」
ひどいことしてごめん、思い出せなくて、ごめん。
事故してから、初めてちゃんと言葉と気持ちを交わせたことに、あたしの胸は途方もなく震えた。
喜びと懐かしさとがあふれて、あたしはガバっと顔を上げ、そんなシャルルに詰め寄った。
「ちゃんと謝ったの久しぶり、とか言うんでしょ、どうせ!」
「いや、”初めて”だね」
びっくりしながら、でもきっぱり言い切ったシャルルが、あたしはなんだか急におかしくなって、思わずぷっと吹き出してしまった。
ああ、地下道であんなにもはっきりあっさりずっぱり”悪かった!”なんて言ったことも、覚えてないんだ。
間違えないシャルル、謝らないシャルル。
今までのあたしの中にあったシャルル像が、変わってくる。
でもそれがなんだか逆に、彼をすごく普通の人っぽく感じさせて、あたしは楽しくなっちゃったのよ。
あたしもやっぱりどこかで、シャルルを神格化してたようなとこ、あたったのかもしれない。 
急にほっとして、気持ちがほわっとゆるむと、自然に笑いがわきあがってきた。
わっはっはって笑い出すともう止まんなくて、あたしは半泣きのまま、シャルルの大きな胸の中でそうして盛大に笑っていたの。
いぶかしげに、危険人物でも見るような目であたしを眺めてるシャルル。
ああ懐かしい、あたしいっつもこんなつめた~い目で見られてたわね。
そう思うとますます愉快になっちゃって、ガハゲホむせてしまったの。
「鼻水をつけるな、フケツ女!」
たりーんと垂れた涙と鼻水を慌てて拭いてくれて、シャルルは意地悪そうにあたしを見下ろしながら偉そうに言った。
「このシャルル・ドゥ・アルディに鼻水をつけたやつは、後にも先にもお前だけだ。この礼は必ずするぞ」
ニヤリと尊大に笑って、あたしの鼻の頭を長い指先でピンとはじく。
これもシャルルが前によくやってくれた事だ。
シャルルだ、シャルルはちゃんといる!
ジーンと胸がいっぱいになって、あたしは目の前の綺麗な手をがっしとつかんで、思わず頬ずりしてしまったの。
「優しくて綺麗な手……なんでかあんた、この手だけは、スケッチモデル許してくれたわよね。
だからあたし、あんたの手だけは目をつぶっても描けるわよ。たくさん、たくさん描いたもの。
この手に頭を撫でてもらうの、大好きだったの」
目を閉じてすりすりしながら、いろんなことを思い出して、あたしはシミジミと語ってしまった。
ふと目を開けると、驚いたようなシャルルの困惑顔!
しまったと思いつつ、あたしは焦ってその手を離しながら、謝った。
「ごめんなさい、つい……っ」
と言いながらも、あたしはほっぺたに残る優しい手の余韻を、しっかり味わっていた。
でもそんなあたしの謝罪そっちのけで、シャルルは自分の手をじっと見つめながら、何かを追うような切実な眼差しを、ふと虚空に向けたの。
「ーーー嫌じゃない、むしろ……」
えっ!?
そう浮かされたようにつぶやいて、直後、キュッと瞳を閉じ苦しげに頭をかかえるシャルル。
「わっ、無理しないで! 焦らないでいいからっ」
シャルルの肩に手をかけながら覗きこむと、白金髪を揺すりながらゆっくりとその天使の頬を上げ、彼はもどかしげな光を宿らせた瞳を、あたしに向けた。
じっと注がれる視線は、なくした何かを探すような不安げなもので、いつも見つめられていた、物憂げだけど仄かに優しいあの眼差しじゃなかった。
やっぱり、前のシャルルとは違う。
どこかぎこちないその表情は、あたしに距離をおいてる証拠で……怒ってても笑ってても、そう、眠っている時ですら、あたしのものだと実感できてたあの愛しい表情は、本当に今はどこにもないんだってことが、ありありとわかってしまった。
ーーーシャルル、こんなに近くにいるのに、あんたが遠いよ!
「あたしのことは忘れてても、頭いいのは変わってないんでしょ。
どうして、こんなことになっちゃったんだろうね、ねえ教えてよ」
言っても仕方のないことだって頭じゃわかってるのに、あたしはまた弱音を吐いてしまった。
あたし、こんなにわがままで堪え性なかったのかな、まあ食べ物に関しちゃ今でもそうだけど。
恋人関係とか、結構ドライでどうでもよかった感あったのに。
今はシャルルの笑顔が見れないだけで、こんなにも悲しくなるなんて!

「どこにいるのシャルル……あたし、淋しい……!

大好きなのよ、シャルルぅ……!」

どうにも我慢できなくなって、あたしはシャルルの胸に飛び込んで泣きじゃくってしまった。
きっと困ってると思う。もしかしたら迷惑がられてるかも。
そんな不安もちょっとよぎったけど、次の瞬間、あたしはかき抱かれるように、性急に力強く抱きしめられた。
大きな胸にすっぽり包まれて、じんわりと全身に感じるシャルルの体温が、身体の芯まで溶けそうなほど熱くて、心地良い。
サラサラの白金髪が、優しくあたしの頬をくすぐる。ああ、なんて懐かしいの。
あたしはもっともっとシャルルを感じたくて、必死に腕を彼の背中に回し、負けじとシャルルを抱いた。
しなやかな筋肉質の背中が、かすかに震えてる。
明日には、また触れられなくなっちゃうかも……ちっぽけなあたしは、そんなことにすら怖がって、彼の胸の中で同じように震えていた。
抱きしめあっていても、すれ違ってるあたしたち。
だけどせめて今だけは、このあったかさだけは奪わないでね、神さま……。






あたしはいつの間にか、シャルルに抱きしめられたまま、深い眠りにおちていたの。















・・・To Be Continued・・・

この作品のリクエスターは嶌子さんです リクエストありがとう! 
しばらく続きマス☆お付き合いクダサイませーーーーーーLPDUnderぷるぷる





拍手いただけるとガンバレます( ´∀`)


2 件のコメント:

とまと さんのコメント...

はじめまして。
このお話、信じられないくらい面白いです!
原作みたいです!
これから色々読ませていただきますっファンになりましたー!!
応援してますね♪

ぷるぷる さんのコメント...

ウホホホーゥ(゚´Д`゚)

嬉しいお言葉ありがとでーすとまとさん!!
原作終わって早30年・・・!!!(ウォウ) 少しでも現役の萌え当時を思い出してくれたらこの上ない喜びっス!;;
ファファファ ふぁんだなんて恐れ多い///ぷる、木に登っちゃいますぜーウヘァハハハハー///(≧▽≦)
お返事遅くなってしもて大変申し訳ありまへんでした(ノД`)
応援ありがとーとまとすわん♪ ぷるガンバるけん(○´∀`○)