2015/06/06

epi:34闇編 Into the darkness1



パートシャルル&マリナ&ミシェル P



「———マ…リナ———!」






ずっと走り続けてきたのだろう、肩で荒い呼吸をしながら、風にまかれ乱れる白金の髪もそのままに、彼は二人の前にその麗美な姿を現した。

どれほどの心配と不安に苛まれただろう……マリナは何よりも、彼の心の負担が気掛かりだった。
文字通り、全身全霊を傾けて自分を想ってくれるシャルルだから、きっと…ミシェルに対する怒りも、並大抵ではないはず。

激情に囚われ、自分を見失ってはいないだろうか———そんな思いで向けた視線の先にいた彼に、マリナはこんな状況にもかかわらず、驚きを隠せなかった。

闇を含んで銀に輝く双眸は、ただ愁いを帯びた優しさだけをたたえ、美しく輝きながらマリナに愛を語りかけている。
優美な体の線は更にシャープになってはいたが、澄んだ冬の朝の様にぴんと張りつめた気力をみなぎらせ、降臨した天の使いが闇を従えんばかりに、静謐にしかし毅然と大地を踏みしめ、そこに存在していたから。
いつもの凍てついた冷ややかさも、倦怠も侮蔑すらなく、ただ真っ直ぐに、開け放たれた大きな心だけが目の前にあった。
迷いも怒りもなく、そればかりか揺ぎ無い自信すら感じるまぶしさに、マリナは流れる涙を止めるどころか、笑みさえ浮かぶほどの喜びが溢れてくるのを感じた。
会えなかった日々がまるで嘘だったかのように、その光はマリナを優しく照らし、仄かな温かさで体中を満たしていく。

それは厳しい冬を越え、初めて降り注ぐ柔らかな春の日差しの恵みのように、目覚めを告げる光だった。




シャルル……、あたしの知ってる、シャルルだ……!




自分の中に渦巻いていた澱んだ物をすべて吐き出すように、マリナは声を張り上げた。





「っ、~~~シャルル……っ、シャルルぅ!!」





その温かく弾ける、なんと耳に心地よく響く音か。
求められる者だけがその恩恵に授かれる熱いこだまが、愕然とするミシェルに容赦なく浴びせられる。


———ほんの少し前まで、これは自分だけのものだったのに———


生まれたばかりの赤子のように、頬をバラ色に染めて、自分の腕の中で全身を震わせて愛を叫ぶマリナが、果てしなく遠く感じる。


じわり 


その時、足元から這い上がってくるどす黒い何かは、血塗られたもう一人の天使の頬に酷薄な笑みを飾らせ、自分が唯一無二になるため、虚像を殲滅しようとするミシェルに、最後の力を与えた。
自分を捕らえている彼のその変化に気づかず、突き上げる思慕に動かされるように、マリナはとうとう堪えきれず、ミシェルの腕をふりほどき、シャルルに向かって駆け出そうとした。

が、———その時突然に、ぎらりとした不吉な光が目の前を横切り、一瞬視界がくらみ足元がよろめく。




「よせ、ミシェルっ、マリナに手を出すな!!」





マリナが歩み出そう瞬間———ミシェルは人知を超えるような素早さで立ち上がりざま、瀟洒な彫刻が施されたその椅子の背もたれ上部を、右手でガンと跳ね上げた。

すると、重厚な厚みのある背もたれ部分に空洞が現れ、ミシェルは風のように、その部分へと手を差し入れる。

中に隠されていた細身のサーベルを引き抜くと、蝶のようにひらりと体勢を整え、マリナの白い喉元めがけ、水平にその鈍く輝く刀身をぴたりと当てていたのだ。


シャルルの鋭い叫びにやっと事態に気づいたマリナは、ありえない場所から登場した凶器に戦慄し、首元に当たる硬質な冷たい狂気に、息を呑んだ。
瞬きすら追いつかないと思われるほどの一瞬の出来事を、手負いの状態でこなすミシェルの身体能力の高さに、マリナは改めて彼がシャルルの双璧、いやそれ以上の力の持ち主だったことを思い知らされていた。

「———ご主人様の命令なしに、どこへ行こうっていうんだい?
お行儀が悪いぜ、ドラ猫マリナ」



辛辣に言い放ち、マリナをたてにするように片腕で小さな体を羽交い絞め、ミシェルはシャルルを牽制するように、鮮やかに対峙する。

背中に感じる恐怖に再び不安を覚えたマリナだったが、ミシェルと交わした言葉と心、シャルルと会うことによって更に解放された気持ちが、以前の気力を呼び起こさせ、マリナに口を開かせた。

硬直する頬をなんとか動かし、震えそうになる声を必死に押し出す。


「なっ、な…なにすんの、ミシェル……っ」


すると、ククと、くぐもった辛辣な低い笑いが頭上で響いた。

「ほっぺピンクにして、こんなに生き生きしちゃってさ。誰にでもシッポを振る頭の悪いやつには、調教が必要だね」

白刃が、ぐいと喉元に食い込む。

「ひっ」

「やめろミシェル、そんなことをしても意味はない……!」



「———本当に、あんたは目障りだよ」




ふいにぼそりとこぼれたバリトンの強かな響きは、今まで聞いたどんな言葉よりも底暗く重い悪意を含んで、声を拾った耳から全身を凍りつかせるほどの脅威に満ちていた。
自分に向けられた言葉ではないのに、そのあまりにも獰猛な斥力に、マリナの背に悪寒がはしった。
冷え切った一陣の風が、鋭い音をたてながら3人の間を吹き去っていくが、シャルルとミシェルの間に張りつめたびりびりするような緊張感は、反比例するように益々高まっていくのがわかる。
マリナが恐る恐る頭上を振り仰ぐと、そこに青白い炎の影をまつわらせ、凄絶な表情を浮かべたもう一人の天使がいた。



「招かれざる客の登場だ。あんたを招待した覚えはないぜ———シャルル」



いつものバリトンが、凶気を帯びて不協和音のように耳障る。マリナはぐっと息をのむとゆっくり手を挙げ、そっと、剣を握るミシェルの肌に触れた。

「こんな物騒なモノ、しまいなさいよ。あんたも早く傷の手当てしないと。もう話せば、わかるでしょ? 

お願いだから…あぶないから、こんなこと、もうやめてちょうだい…っ。

シャルルも、待って。

見ての通りミシェル、怪我してるの。血もいっぱい出ちゃったし、早くしないと……死んじゃうわっ」

離れて立つシャルルに向かって、身体を震わせ必死にそう言い募り、マリナはミシェルを振り返る。

首に当たる凶器は、今も自分の命を脅かしている。
だが触れる肌から感じるミシェルの仄かな温かさは、決してマリナを拒絶していなかった。


抱きついた広い背中、魂を絞り込むような抱擁、少し冷えた唇ーーー


今は遠くなってしまった、かつての懐かしい熱。

この肌から、確かに得られたはずの、想い。


気を抜くと今にもこぼれそうになる涙を必死にこらえ、マリナはきつく唇を噛みしめた。
少しでも口を開けば、抑え込んだものが溢れてしまいそうだったから。
どうして、どうしてこんなことに。
考えても仕方のない疑問ばかりがマリナを翻弄する。


大きな黒い瞳が、食い入るようにミシェルを見上げている。
批難も恐怖もまるでない眼差しは、共に過ごした僅かな時の中で一番輝いて、心奪われるほどの美しさに満ちていた。

その眼差しにはっと怯んだように、ミシェルは一瞬身じろぎし、それを隠すように衝動的に刃をたてた。

だが、”その意志”を持たない道具は、もうただの道具でしかないのだ。

手の中の凶器より、注がれる視線の方が恐ろしいとは……喜ぶべきか、とうとうボクも狂ったようだ。


「本当に、お前さえ現れなければ、よかったのに」



僅かに空を仰ぎ、ほおっと吐息をついたミシェルは、やつれた青白い頬に仄かな微笑みを浮かべたように見えた。

「どういう、意味?」

マリナが言い終わるのを待つ間もなく、突然宙に閃いた白刃は、むきだしのマリナの腕の皮一枚を、音もなく撫でた。
痛みというより唐突な熱さが、その部分から小さな身体の末端まで駆け巡る。


「貴様っ!」


シャルルの声が膜を張ったように遠い。

何が起こったのか、まったくわからなかった。

痛みに萎縮した小さな身体が、再び羽交い締めされるまで、マリナは呆然と突っ立っているしかなかった。

やっと痛む箇所に視線を向けると、いつも原稿中のミスでそうするように、裂いたような斜め傷が腕に薄くはしり、そこからわずかに血がにじんでいた。




ミシェルはやはり、変わっていないのだろうか。

突然の凶事に晒された身体の芯から、震えがわきあがるが、がっちりと抑えこまれ、両拳を握りしめたマリナはうつむき、浅い呼吸を必死に整えた。

後ろに立つミシェルは息も乱さずに、戦慄するマリナの耳元に薄い唇を寄せ、低く囁いた。




「さて問題です。椅子の足は、全部で何本でしょう? 

さすがにお馬鹿な君でもわかるよね、マリナちゃん」



いきなり声など出ようはずもない。
肩で息をしながら、マリナはわななく口を懸命に開けた。

「ミ、ーーーみしぇ……ぁ、あんた……っ」

「答えないともっとイタイことしちゃうかもよ。それでもいい?」

「……っ、よ、四、本よ」

「後ろ足は?」

「に、ほんでしょ!? バカにしてんのっ」

「とんでもない! 元々の馬鹿を、これ以上バカにはできないだろ、フフ。ということはだ……マリナ、もう一本あるやつ、取って」


冷えた笑いを浮かべても、その瞳は凍りついた星そのもので、飛ばす皮肉が決して冗談ではないことを雄弁に物語る。
その様にゾッとしながら、いぶかしげに、冷酷なミシェルの視線をたどれば、彼の血がまだ生々しく残るあの椅子に注がれていた。


そうだった、この刃はあの背もたれの中からもたらされたのだ。


おそらく後ろ足部分が空洞になっており、その中に暗器として剣を隠せる仕組みになっているのだろう。
ごくりと喉をならし、マリナは刹那、シャルルに視線を送った。
それに気付いたシャルルは僅かに頷き、マリナに行動を促した。
震える足をゆっくりと踏み出し、首に変わらず白刃を横付けされたまま、マリナは少しずつ歩を進め椅子に近づいた。

なるほど、彫刻を施されていた背もたれの上部が消えており、おそるおそるその中に手を入れ探ると、ひやりとした硬い感触が指先に触れた。


指を傷つけないように柄の部分を探り当て、それを引き抜く。


ズシリと手にかかる重さは相当なもので、怪我を負っているミシェルが、空気のように扱っているのが嘘のように思えた。


「よくできました。マリナ、ーーーそれを」

アイツの足元に放って


予想だにしなかったその言葉に、シャルルの肩が揺れ、風になびく白金の髪がわずかに乱れる。

「ーーーっ、えっ!?」

驚いて振り仰いだミシェルの横顔は、まるで遊びに行く前の子供のようで、抑えきれない期待感のような高揚が、にじんでいた。
冷めた瞳は変わらず、寸分たがわぬ血を分けた虚像に縫い止められている。
だがその暗い底から、じわじわと光が湧き上がり、不吉な輝きを呼んでいた。

「マリナーーー」

ミシェルの意図がまったくわからずまごついていたマリナだったが、ふいに響いたテノールの穏やかな声に、まるで金縛りが解けたかのように身体が軽くなりーーー意を決して、手に持つサーベルを横向きに寝かせ、離れて立つシャルルの足元へと放った。

金属が岩に当たる不快な不協和音が、谷間に落ちていく。




「ねえ、死んでみせてよ、兄さん。それならいくらなんでも、マリナだって諦めつくだろ」

「なっ、ミシェル!!」




そのあまりに不敵で傲岸不遜な物言いに、マリナはかっとして背後のミシェルを振り返る。
傷の痛みはあるが楽しくて仕方ない、とでも言っているような、引きつった卑屈な笑みを浮かべながら、ミシェルは対峙する片割れを睨めつけていた。
しかしシャルルは、相反するような無表情で、静かに口を開く。

「それでお前の気が済むなら、いくらだってこの首を掻き切ってやる」

「な、に……?」

その言葉に、ミシェルばかりかマリナも息を飲み、目の前に立つシャルルを凝視した。
風に遊ばれ乱れる髪は、わずかに落ちる月光のきらめきをはらみ、神秘的なほどに輝き、そんな彼を神々しいまでに飾っていた。

シャルルはゆっくりと肩を引き、訝しげに身を硬くする二人にまっすぐ向き直ると、深いテノールの声で、穏やかに続けた。


「が———それは、出来ない。マリナのために、もう、無駄な血は流せない」


マリナは確信していた。

胸にこみ上げる熱が、シャルルのすべてを信じろと告げている。
彼ならば、きっと、この重苦しい悲劇の連鎖を断ち切ってくれる。
かつて最愛の人を失って抜け殻だった自分に、再び生きる力を与えてくれたのも、彼だった。
いや、昔からーーー知り合った当初から、彼に間違いはないのだ、たとえ太陽が西から上っても。そしてあの時より、艱難辛苦を超えてきたその魂が、更に磨かれて大きな存在となっているのが、こんなにもわかる。

大きな瞳から溢れた温かい涙が、マリナの首元にある白刃にこぼれ落ちたその時、背後から毒々しげなバリトンが高らかに響いた。




「フン、惚れられた強み…ってヤツか、フ、フフ———ハハハ!」




ミシェルは可笑しくてたまらないというように肩を震わせ、白刃を下ろすと、片腕で拘束している小柄な身体にのしかかり、まるで世間話でもするように口を開く。

「ああ、確かにこんなことしたって意味ないよな。
なんだよ、からかっただけだよマリナ。お前のビビリ顔がおかしくてさ、フフ」

しかし、明らかに冷たい光の浮かぶその灰色の瞳は、言葉とは裏腹な凶暴さにぎらついていたのを、マリナは見逃さなかった。
剣は下ろしたミシェルだったが、代わりに自分の腕をマリナに絡みつかせ、強く自分へと引き寄せると、まるで躁状態のごとく、一転、雄弁に語りだした。


「冗談だって! 僕とマリナの仲だろ、そんなに怒るなよ。

ーーーそうだ兄さん、聞いてよ。すごいニュースがあるんだ」


恍惚とした表情でゆっくりと向き直りながら、ミシェルは噛んで含めるように、低く告白する。
その顔は、まるで神から洗礼を受ける信徒のように敬虔で、感動に打ち震えるかごとく、喜びが細い身体から溢れているように見えた。



「さっき、マリナの方から、僕に、キスしてくれたんだ」

「!」


シャルルはすぐさまマリナに視線を向けた。

こんな狂人の戯言を、信用できるはずがない。

事の真偽は、彼女を見ればすぐにわかるはず。

しかし向けた視線の先で、凍りついたように蒼白な顔で、わなわなと震え出すマリナを見た途端、心臓に楔を打ち込まれたような痛みが、シャルルに真実を教えた。

薬で操られていたせいと、まだどこかで「それ」を受け入れきれていなかった甘さに、打ちのめされる。

だが、そんな愕然としたシャルルの眼差しに気づく余裕は、マリナにはなかった。
その時突然、本当にあまりに不意に、マリナに記憶の奔流が襲いかかっていたのだ。

自分がこの男に何をされていたか、そして自ら、何をしてしまっていたか。

目の前が激しく歪み、体の芯から湧き起こる恥辱と嫌悪感に圧し潰されそうになりながら、マリナは必死に自分を抱きしめた。



「館で過ごした毎日は、本当に、楽しかった。ああ、楽しいという表現すら、もはや適当ではないな。

僕はーーーまるで自分が、生まれ変わったように、感じていた」





少しトーンの落ちたバリトンの響きに顔を上げると、儚げな甘い影が血塗られた天使の頬に一瞬よぎるのが見え、あの朝日の中で見たミシェルの美しさが蘇り、その繊細な優美さに翻弄され、マリナの心は千々に乱れる。



To be continued......  

⇒Into the darkness2



読んでくれてありがとう


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